認知症ととパーキンソン症候群  の父の治療

認知症は良くならないのにパーキンソン症候群の治療をして意味があるのか。

パーキンソンの治療が進んで、動けるようにだけなって、父は幸せなのか。いっときパーキンソンも症状が強く出ていたとき、あんまり喋らなくなって、動きも遅くて、なんかかわいそう。と思っていた。でも私はそっちの方が良かった。私は。父が静かで、のろのろしてた方が同情感も沸いたし、イライラも少なかった。気持ちが少し優しくなれてた。でも今の父はまたうるさくなった。昔のように。口だけ回復して、文句ばっかりまた言うようになった。父は前より幸せに感じているのだろうか。昔のように文句ばかり言って。文句を言って幸せって人いるんだろうか。

母は認知症が進んだとき、神様がそうしてくださった。みたいなことを言ってたことがあった。父は口がひどかった。性格がやばかった。だから認知症と聞いた時こそショックはあったが、進んできて慣れてからは、むしろ今の方がいい。と思ってた。母も多分そう。だからあの父の相手より、介護の方が良かったのだと思う。

しばらくしてあまりにも動きが遅くなっても、認知症が進んだのだと思ってた。それがパーキンソンのせい、とわかったのは今年の頭。ああ…となんか、もう終わりか、みたいに思った。少し寂しさも覚えた。事実だ。でも治療をする。と聞いたときは、…、別にもうせんでも。と正直思った。だって認知症まで治るわけじゃなし。。でも医者は病気を発見したら治療しないといけないんだろうな。なんかめちゃくちゃ詳しい検査をわざわざして、時間とお金をかけて、薬を決定し、飲み出した。そうすると、効くのだ。これが。そしたら、忘れかけていた父の文句がまた始まったわけだ。

 

私はがっかりしている。

父には悪いが。

死んでほしいとかもう思っていないが。

別に長生きしてくれてもいいが。

もう静かにしてほしい。

せめて文句や機嫌の悪い声は聞きたくない。

勘弁してほしい。

一人暮らし頑張ろう。。

40年前の千葉県千葉市

最近身の回りで面白いことが全然ないから、昔の記憶を書いてみることにする。

千葉県千葉市に2年生の夏までいた。

今は福岡県に住んで長いので、福岡県の良さがわかるので、今千葉県に戻りたいとは思わないが、小学2年生までは、千葉はパラダイスだった。悩みがなかったから、それだけが理由だけど。小学校も高学年、中学高校となると、いろんな嫌なことがあり、博多弁になかなか馴染めなかったこともあって、私には千葉が余計パラダイスのように感じていた時期がけっこう長くあった。

大人になって東京に少し暮らしたこともあり、都会のゴミゴミさや空気の汚さ、そういうものを経験して、今また福岡にいると、千葉がパラダイスだっのは、本当に、悩みがなかったからだ。というのは本当にそうだったと思う。今は九州が好きになってる。

年をとってくると昔の思い出ばかりが鮮明になり、最近のことはわすれる、というのは本当だ。私は最近のことも頑張って覚えているつもりだけど、昔のことって、全然わすれないし、よく、思い出す。ここ2、3年それは顕著だ。

私が通っていた幼稚園の園歌。それは、わたしが在園中に新しく作られた。有名な人が作詞作曲しており、名歌といわれた。作ったのが誰だったか幼稚園児だったから知らない。でも、その歌は本当にいい歌だった。新しく作られた歌ということで嬉しくて誇らしい気持ちだった。今でも全部歌える。

小学校のお昼休みに、しょっちゅう、校内アナウンスがあった。それは、『光化学スモックが発生しました。校舎に入ってください。』というものだった。低学年だったので、怖い~とかは思わず、ふーんそうなんだ。と思って校舎に戻った。そういえば空気の中が光った気がする。とか悠長なことを考えていた。

近所に広い公園があった。ものすごく広いグラウンドと、遊具のある公園的な場所が一体化している公園。そこの遊具のある場所に芝生部分があり、たまに夕方5時頃になると、謎のおじさんが出没した。そのおじさんは、赤いキャップをかぶり、『芝生に入るな~、芝生に入るな~!』と、子供たちに言ってまわる。それは、そのおじさんが委員会の人とかじゃなく、個人で勝手に言っていただけなんではないか、と今は思う。いかにも怪しい、変なおじさんだったから。子供たちはそのおじさんを影でハゲアンドゴリラと呼んでいた。今思い出すと、ハゲではなかった気がする。ゴリラに似ていたかもわからない。けど、イヤなおじさんだから、そう言っていたんだと思う。ハゲアンドゴリラが出るよー、とかみんなで言っていた。

幼稚園の向かいに小学校があった。幼稚園の通りのちょっと先に、スーパーや、いろんな小さい店が寄り集まったアーケードモールのような場所があった。私の一人での行動範囲はそこまでだ。その先は、お姉ちゃんといっしょか、お友達の家に行くとき。それくらい。そのアーケードモールのすぐ横に、川が流れていた。橋が掛かっていたが、その川はちゃんと名前があっただろうが、私たち子供はドブ川と呼んでいた。今でも覚えているが、水ではなく、黒い川だった。そしてすごく臭かった。なんという環境だったのか、と今は思う。でも当時は何も思わず、臭~い!とか言って笑いながら鼻を押さえて橋を渡っていたのだ…。わたしはわりと能天気だったんだろうな、子供のころ。

そういえば、海も死ぬほど汚かった。たぶん徒歩で行ける距離だったと思うが、それは家族や、学校行事でしか行ってないので、私は実際の距離はわからない。とにかく、絶対、泳げたものではなかった。黒かった。足をつけるのが精一杯。潮干狩りのようなものはできた。ということは、貝とかは生息できたのだろう。花火大会のようなものもあった。それは汚さは関係ないからね。

とにかく、あのころの千葉市は環境がひどいものだった。しかし子供は平気だった。

ヘンタイが出るとか、ルンペンがいたとか、そういう話もよく聞いた。ヘンタイは有難いことに遭遇したことはなかったが、ルンペンさんは見た気がする。要するにホームレスの人。当時はそういう風に呼んでいた。

昭和50年代の終わりのころのことだ。今思い出すとひえ~って思うが、その時は幸せだった。ほとんどが。そりゃあたまーには普通にいやなこともあったけど。でも大部分は幸せだったな。

作業所に行き始めた

きのう病院に行って診察のために早起きしたんだけど、その影響で今日も早起き出来た。とは言っても11時だけど。私にとっては午前中に起きられただけでもえらい。だからすごく良しとする。前田先生は相変わらず良い先生。ストレスが少ない。素晴らしい。でも、私を早く自立させたくてうずうずしているようだ。毎回感じる。アパートの進み具合は、生活保護の手続きはどうだと、はっきりとは言わないが、急かしてくる。まあ、それはありがたいと思っておこうと思う。だって訪問看護師さんんも相談支援員さんも、私のペースで。と、まっったく、急かしてこないから。端から見たら、私は、何をもたもたしている。と思われても仕方がないような状態ではあるのだ。そこは私の病気の状況を理解してくださいよ、と思ってはいるけれども、一人くらい急かしていても良いのではないかと思うからだ。

作業所に隔週ではあるけど行き始めた。そこはとてもいいところで、利用者を軽んじたりすることが決してない。それが一番の決め手だった。経営者の夫婦が障害児の親なので当然かもしれない。それにしても良い事業所だ。パソコンでデザインが学べるし、多分希望すればマーケティングのノウハウ?だとか、そんなのまで学べるらしい。マックのパソコンが何台もあり、企業相手に広告デザインを手掛けてきたデザイナーさんがいらっしゃる。なんと贅沢な作業所だろう。良いところを見つけられてよかったなあ。続くことを祈る。

きのうの前田先生との会話で、日光を浴びないと気持ち悪いので毎日外に出ます。と言ったら先生が『人間ですもんね。』と返されたのがあとあとになってじわじわきた。

 

 

更年期はどうにもならんな

やる気が出るホルモンが、減る。そうか、そうよね。わかった。ごはんをバランスよくたべたり、運動したり、薬を飲んだり、してるよ。頑張ってるよ。

それでも、3年前のようには、絵描けないのね。今はもう。もうこれを仕事にしてしまおうかと覚悟しても、描けないのね。前は毎日描いていたのにね、今は週に1枚が平均なのよね。あぁ…。。すべてがスローだ。

せっかくアパート暮らしを始めて、なんとかなりそうなのはいいけど、家事をやってごはんをしっかり食べる。で、終わる。。あと身綺麗にするのがやっと。そんなものだろうか、うつ持ち更年期って。そうね、そんなものかもしれない。私が毎日みているXのゆにさんも、もっと重症で、歯みがきやシャワーを目標にしてるもんね…。たまに外出できる日が出てきただけでも、かなり回復してきたのかもしれない。ここ何ヵ月単位で考えると。一年前とかマジで寝たきりに近かった。そう考えると…アパートを借り、、くらいでももはやすごい進歩してるじゃないか。うん。あともう回復の余地があるかわかんないけど。更年期だから、ここで打ち止めかもしれないけど…。まあ、明日は明日できることをただやるしかないのだ。明日は夕方バスに乗って家に帰る。陽があるうちにバスに乗る、が明日の課題だ。がんばろう。

病める者は幸いである

最近聖書を読むようになって、病める者は幸いである、貧しい人は幸いであるの意味を考えて、ちょっとわかってきた感じがする。それは、私がまあまあ貧しいし、まあまあ病める者だからかも。それで、今は精神的に少し良い状態になってきたから、そういうことを考えられるようになってきたんだと思う。病める者は、たまに調子が良い日があってちょっとでも普通っぽいとすごく嬉しい。ほかの人は当たり前の、家事ができる。外出ができる。今日は両方できた!とかでも、すごく充実した気分になる。だから、幸せ。幸いである。となる。単純だけど本当にそう思う。貧しい人もそう。ふだんあんまりいいものは買えない。けど、たまーに、買う。そしたら、やった!!これ買ってしまったよ!となる。それもそんなに高いものではなくても。ここしばらく何年か一万円以上のものは買っていない。たぶんこれからも買えないと思う。だけど、なんか幸せ。二千円のものを買うと幸せを感じる。お金をたくさん持っていたら、いくらでも高いものが欲しくなってキリがなくなる気がする。だから、貧しい人は幸いである。になる。

フィギュアスケートの三原舞衣ちゃんを見てると、すごくそれを感じる。彼女も病める者だから、普通に滑れることに、ものすごく幸せを感じているよう。滑れない体調の日がよくあるんだろう。だから、ほかのスケーターと違う。結果もほしいけど、滑れることが幸せなんだ、彼女は。だからもあって、彼女のスケートにはほかの選手にはない感動がある。坂本さんの勝利はしびれる感動がある。でも三原舞衣ちゃんの勝利にはじんわりとした感動がある。

病める者は幸い。貧しい人は幸い。

聖書の教えはこんなことではないかもしれないけど、今の私の気持ちはこんな感じ。

父も私もヘルパー利用

久しぶりに文章を書く。最近は具合が悪かったり、ちょっと良くなったら色々忙しくてブログなど書く暇がなかったり。大変に忙しく、具合も悪く、しかし充実もしている。

更年期が本格的に始動し始めたようで、40代も半ばを過ぎたから仕方ないが、調子が毎日今一つ。しんどいのは当たり前。ましか、ひどいかの二択だ。しかしここ最近は涼しくなってきて、ましな日が多い。有難い。休み休みなのは変わらないが色々毎日できている日々だ。

夏に大変な危機があって、死ぬかと思ったが、それをきっかけとして、その後から物事がうまく回り始めたのを感じる。具体的にどういう事かと言うと、一人暮らしを始めるということを決めた。これだ。

今まで家を出たくて、グループホームしかない、と思いこんで探しては体験、を繰り返していた。しかし満足のいくところが見つからず、ちょっとして家に戻る。それを一年と少しやっていた。いいところが見つかるまでやろうと思っていたが、そのうち父の認知症が進み、家の中はなかなかひどい状態に。そこに今年の夏の猛暑、加えて思い出したくない家族内の悲劇。もう本当に家は限界になった。なので、今まで手を出していなかった一人暮らしについに舵を切ったのだ。今まで、一人暮らしは簡単にはできない。準備やいろいろなことにお金もかかる。という理由で、だからやらずにきた。でも、本当はやってみかかったのだ。しかし思い切りも勇気も出なかった。しかしあああ、もう、やだーーー!!!とやけくそになって、初めてそうすることになり、結果よかった。というかまだ準備段階だが、もうワクワクしている。不安はたっぷりあるのだが。なにせ一人で暮らすのだから。しかしそれらの不安より、楽しみの方がずっと大きい。自分だけの家、自分の好きなように暮らせる家。なんて素敵なんだ。絶対これはグループホームに入居じゃ味わえなかっただろうと思う。この気持ち。

そういうわけでやるべきことがたくさんある。家具家電の準備。生活用品の調達やなんやかや、物理的にたくさん。しかし何より、ヘルパーさんの手配だ。これが一番重要。相談支援員のIさんに頼んでいるが、これからどのように利用していくかを決めなくてはならない。母にもしばらくは応援を頼みたいので、家との兼ね合いを考えながら。これが大変なところ。父も症状が進んできたので、ヘルパーさんを入れることができるようになるらしい。それでうまく母が疲れない程度に手伝ってもらえれば。。と思っている。

早く(と焦り過ぎてはいけない)家から自立し母の手を借りずに生活できるようになりたいが、確実にできることを一つずつ積み重ねていこう。と思う。今は。

おばあちゃんもうすぐ100歳

敬老の日がやってきて、おばあちゃんのところに、100歳記念のいろいろお祝い品が来ていた。正確にはまだ99歳で、来年の1月で100歳を迎えるおばあちゃん。なので今年度に100歳を迎える人に、この敬老の日あたりで国から一斉に記念品を送っているらしいと思われる。内閣総理大臣から、県知事から、そして市から。総理大臣からは、銀杯だった。これは前から情報があって、立派な銀杯がもらえるらしい。と聞いていたのでどんな立派なものかと期待していたが、届いたのはお屠蘇を飲むくらいのサイズの小さな杯だった。なーんだ。こんなに小さいのか。と、拍子抜けした。一応小振りながらも立派といえば立派なんだけど。そして県からは一番適当と感じられる、風呂敷みたいな布でできた、ティッシュ入れみたいなやつ。これ、普通のやつやん?て感じ。それで、市からは、私はこれが一番いいじゃん、と思ったが、盾。中サイズくらいで、両開き。右側には市からのお祝いの言葉。左には、事前に提出していたおばあちゃんの写真と経歴を元に、似顔絵とこれこれのことをされてきた、○○さんは立派です!みたいなことがかわいらしい自体で書いてある、絵手紙のような、やはり表彰状のようなもの。なんかあたたかみがあって、その市からの盾が私は一番いいなと感じた。あとは、国からと県からの表彰状。これこそ表彰状という感じの、卒業証書みたいなやつ。筒に入っていた。まあ嬉しいものかな。こうお祝いされるとね。

おばあちゃんはもう100。という実感がいよいよ沸いてきたみたいで、もうあの世は遠くない。みたいなモードになっていた。いやまあ自然のことだから別にいいけどね。遺影のことなどを自らイキイキと話す。(笑)いいけどね。しかし今のところ足腰は弱ってはいるものの、自分で歩けるし、ごはんもしっかり食べられるのです。あと3年くらいいけるのではないか。とか思ったりもするが、だがそれはやはりわからない。やっぱり年は年なので。それがいつなのかは、神様しか知らないことだ。

とにかく、私も自分のことで、これから家を出るかとか考え中だけど、今までどおりおばあちゃんのうちに、たくさんお世話になるつもり。看護師さんとの面談に使わせてもらったり、時にはうちを離れる気分転換のために滞在させてもらったり。お世話になれる限りはお世話になろうと思ってる。これまでどおりに。おばあちゃんがあの世にいくのが本当に近いのなら、余計にたくさんの時間をおばあちゃんと過ごそう。そう思う。