氷川きよしから抗えないものが
私は氷川きよしと同じ年。同じ県出身。
高校も、近かった。同じ駅を利用していたはず。
だから、絶対◯◯駅ですれ違ったことがあるはず。
と、いつも思っている。
同級生として、親愛を持っていつもテレビを拝見している。別にファンじゃなくても、この人同郷で、◯◯駅利用者だもんね。と、いつも思っていた。
今日、うたコンに氷川きよしが出ると母が言ったので、見てみた。もはや、今日は男か女か、どっちの扮装であろうか。みたいな興味もある。今は。
今日は福岡でコンサートをやると。九州出身の歌手たちがたくさん。森口博子や、森高千里、あとは、海援隊とか。それで、地元なので、やはり氷川きよしは男だった。しかしちょっと細身の燕尾服みたいなやつで、ちょっと宝塚っぽくもない。でも、完全に男の扮装。メイクも男メイク。やはり、地元のみなさんには、男なのだな。と思い、いい奴だ。やっぱり。と思った。
箱根八里の半次郎を歌うと。おお、やはり、地元だからだな。おばあちゃんファンも来ているかもしれないしね。いいじゃないか、氷川きよし。頑張れ。
そして、やだねったら、やだね🎵
と、歌うきよし。ポーズはかつてのまま、かわいい。
しかし…。
なんかキレがいまひとつ。
下手では、ない。もちろん。上手いけど…。
あんまり歌ってなかったね?さては。最近。
って感じがめちゃした。
そして。最後。
半次郎~~~~の伸ばしの声が、声が。。
おじさん演歌歌手のそれだ。
アゴが、揺れている。
その最後のところのこぶしのかけ方、かつてのきよしは、そんなかけ方してなかったじゃん…。
朗々と歌っていたじゃん…。
おっさんのかけ方だよ、それ。
ガーリーになったきよし。
かわいくなって、今や男にも女にもなれるきよし。
まだ40代のきよし。
演歌の、最後の伸ばし方がオッサン化してました。
えーー…。
ガーリーになったのに、やっぱりオッサンが隠しきれてない。
しかし、そういう氷川きよしは、かわいいのかも知れない。
そう考えると。考えようには。
かわいいのかも。。
作業所の先生の作品
デザイナーの講師の先生が本気でふざけた作品を作っていた。それを見て私はとても尊敬した。
この先生というか講師の方は現役バリバリの世代の方で、前職は本物のデザイナーをされていた。有名な企業で。そんな方がいる作業所なので、私はここを即決めたし、それ以来この方に認められたくてずっと頑張っている。ところもすごくある。(スタッフみなさんがとてもいい人ばかりなのもある。)
今日、週一の作業所の日でいつも通り作業し、休憩していたとき、ふと、横の窓に大きなポスターが置いてあるのが目についた。
何かの劇団の公演とかの、そういうコミュニティセンターとかにあるようなポスターに見えた。
しかし、真ん中にうちの作業所の名前がしれっと、堂々と載っている。
ん?この作業所で、なにか公的なイベントが行われるのか?そんな大きな施設ではないが…。と思いながら細部を見ていると、これまたしれっと、スタッフのみなさんの顔が登場人物ふうに写真で出ている。
これ、ふざけてるやつだ…。
うちの作業所を舞台に…。何かしら起こる、みたいな感じ。にしてある。。
と、わかった。
珈琲うんぬん、書いてある。
ん?この作業所は、一時的に、カフェになるんだろうか?
また考えた。
しかし違った。
作業終了時に、スタッフの方に聞いたら、そのデザイナーさんが、こだわりのコーヒーをただ、振る舞いたい。そのイベントを、自身でポスター仕立てにしたらしい。
う、うける…。
そんなことのために、こんなものを。
素晴らしく無駄でレベルの高い、お遊び…。
本当に本物の何かのポスターだと思った。
さすが、本職の方。
これを、なんの利益もないのに、ただ作業所の身内に見せるために作ったんだ。。
けっこう時間かかってるやろ、これは。本職の方でも。たぶん。
こういうことする人、めちゃ好きや。
改めて、私を弟子にしてください…!!
って心のなかで思った。
まあ、もうこの作業所で習っているから、広い意味では弟子と言えるかもしれない。実際具体的な指導をしてくれてるのは、若い指導員の方だが。ちゃんと技術のある、若者2名。
しかし、この先生のセンス、やはり、この方、素敵だなと思った。いつか、この方の元で、いっしょに簡単なものでもいいから、仕事をするのが今の私の夢だ。これが今の私のモチベーション。ほんとに。だからこれからも、すこしでもお役に立てる日が来ることを願って、デザインの勉強、頑張ります。
あーほんと面白い。面白いから写真も撮ってきた。
スタッフの人にもちろん言ったよ。
最高に面白いですねー、◯◯さんて。って。
カレンダー作り
イラストレーターでカレンダーを作る練習をしている。4月頃から始めた。最初5月を作ってそれから7月、9月、11月、12月。
5月のは途中でやめた。あまりに難しく感じて、もう一回始めから、またやる。と思って、最後まで仕上げなかった。すぐ7月のを始めた。
7月のは初めて作り上げた。でも、すごく、すごく、シンプル。超、シンプル。でもよかった。作れたことが嬉しかった。難しかったのは、数字を1から31まで並べること。これが、最難関だった。本当に難しかった。指導員さんに質問しまくって、何度も練習して、いびつだけど、なんとか、なんとか、並べることが出来た。
9月のから、少しは楽しむことが出来てきた。こうしてみよう、ああしてみよう。と。でも、まだ今も出来てないんだけど、棒を複数、同じ長さ、同じ幅。にするのがこれまた、難しい。未だにマスターできていない。未だに?じゃあどうしている。それは目分量。なのです。棒を複数コピーするのは出来ている。ので、長さは同じになっているはず。しかし。あとから、あ、少し伸ばそう。伸ばしすぎた。縮めよう。となったら、目分量。そんな感じ。間隔は、ほんとにまだ。ていうか、習ったけど、どうも自分でやるとうまくいかないのだ。なんで?指導員さんと同じ動作をしているつもりなのになぁ…。だからそこは未だに目分量なのだ。
まあそれはそれで。グリッドはもうわかる。グリッドを使いたいときと、棒をひきたいときは、仕上げのデザインで決めるわけだ。私はただ今は、線が残らないときはグリッドで、線を残すときは棒をひく。という二択。もっと上達すればいろいろあるんだろう。グリッドは本当は同じサイズの四角をたくさん作る?わけなのだが、私はきっちり等分する、のめやすにしている。今は。
でも、線がないカレンダーは、なんかおしゃれなので好きだ。私はいつもカレンダーを毎年買うのが楽しみで、もっと昔父が健在で働いていたときは、おしゃれなカレンダーを毎年いろいろ買っていた。なので、それは良かったなと思う。これまでにいろんなデザインのカレンダーを見ているので。おしゃれなやつ、数字んとこ、枠なし、多い。だから、自分のでも早々に枠なしを作った。でも、枠なしは以外と簡単なのだ。グリッドがわかればできるから。
だから、7月の超シンプルカレンダーは、枠もなく、写真をポンと載せ、色もすごく少なくした。とても、良かったと思う。初めてにしては。
最近考えるのって、値段のこと。(早すぎ。)カレンダーって、安くて1000円くらい、高いと2500円とかだよね。それって…。相当売れないとそうならないよね。と、もはや販売する人目線で考えてしまうことがある。作業所で印刷すれば20円だけど、製品化するならもっといい紙だろうし。で、印刷やさんに払って、自分に利益…。出る??って思う。カレンダーって12枚いるよね。やっぱ1000円で売るって大変なんじゃ。でもねえ。どんな風に値段って決めるんだろうね~。
まあ私はまだ初心者だから、そのうちもっと上達したら、そういうところの話も徐々に教えてもらえるかもしれない。まあ作業所だから、もし利益が発生してもとても微々たるものなんだろうけど。でも軽作業で工賃をもらうより、デザインでもらいたい。私は。だから、安くてもこれからも頑張ろうと思います。
楽しいしね。ほんと楽しいよ。デザイン。
良かった良かった。いい作業所。
慢性疲労症候群では
ずーっとこの病気を疑ってきたけど、診断してくれる病院がなかった。
あっても、遠い。20何年か前は日本で1ヶ所だった。それに出かけていったことがある。その昔。しかし、発症前に身体病があった場合、検査の対象外となり、何も受けられず帰った。ことがあったなー。私は喘息だった。その頃。(そこの先生はすごく申し訳ないと言ってくれた。だからいやな思い出ではない。)
喘息は何ヵ月かで治ったけど、いつまでたっても疲れて疲れて何も出来なかった。ずっとそうだった。寝てた。ずっと。一応精神科に通っていたけど、ずっと、これって、精神かな??なにか違うんじゃ。とかずっと考えてた。
その頃は慢性疲労症候群という名前が少しずつ浸透してきた頃だった。この名前を知ってから、これじゃないの、私の病気は。とずっと疑っていた。家に当時1台だけパソコンがあった。それでたまに検索していた。でも何度検索しても、この病気についてはまだ詳しくはわかっていない。この患者は早死にの傾向がある。心臓発作やガン、自◯など。とか、さらっと最後に書いてあったりした。ガーーーン。と思って、弱っていた当時の私はシクシク泣いた。あぁかわいそうに。あのころの私。
今それから20年以上過ぎて、やっと、まあまあ動けるようになって。たまーーに、思い出してその病名を検索することがある。すると、今は治療法、と載っている。
坑酸化作用のあるビタミンCをたくさんとる。
免疫うんぬんで漢方薬をのむ。
SSRI(坑うつ薬)が効くことがある。
…。私、全部やってるわ。やってきたわ。
ビタミンは自分で始めた。BとCは割りと早くから飲みだした。なんか、神経にいい感じがして。基本サプリだし問題ないと思って。坑うつ薬は、途中から、精神科で処方。
漢方薬は、年齢少しあがってきてから婦人科疾患がつらくなって、自分で薬局に行った。
あとは認知行動療法って、内容読んだら、いつも日常的に、やってるわ、これ。と思った。私はすっごい自分の行動とか心理とかを、ヒマさえあれば考察している人だ。俯瞰して考えたりする。
だから、あのとき本当に自分が慢性疲労症候群だったのかわからないが、仮にそうだったと仮定しても、20年かけて自分で、そして精神科の治療と、あと漢方薬局さんの漢方薬のおかけげで良くなってきたのかも、しれない。
よかったねぇ~~~。
頑張ったねぇ~~自分。
割りと、動けてるからね。昔より。
努力したね。自分。
誉めてあげるよ、自分。
無題
久しぶりにこのブログを書いている。
しばらくメジャーなほうに書いていた。
久しぶりにこっちを覗いたらたくさんアクセスがついていてびっくりした。ついに私のブログも日の目を見る日が来たのか…。ってそこまでではない。
でも昔は書いても書いてもほとんどアクセスがついてなかったから、ほぼ誰も見ていない公開日記。状態で書いていた。でも気楽だった。
楽しいこともイヤなことも。
いまもそうだけど。でも大手のやつは、どの記事が読まれたかわかる。
そしたら、人気がでるような内容ばかり、書いてはいけない。自分らしく貫かなくては。と思う。心がゆらぐ。
こちらは、どの記事が読まれたかはわからない仕組みらしい。
まあ、そっちのほうがいいか。
自体もこっちのほうが読みやすい気がするよ。なんか。
まあ文章書くのは相変わらず好きなので、これこらもたくさん書こう。
下らないことばかりてすが。
今はガンガン更年期になってしまったので、攻撃的で愚痴っぽくなってしまっている自分です。
でもそれが自分なのです。
認知症ととパーキンソン症候群 の父の治療
認知症は良くならないのにパーキンソン症候群の治療をして意味があるのか。
パーキンソンの治療が進んで、動けるようにだけなって、父は幸せなのか。いっときパーキンソンも症状が強く出ていたとき、あんまり喋らなくなって、動きも遅くて、なんかかわいそう。と思っていた。でも私はそっちの方が良かった。私は。父が静かで、のろのろしてた方が同情感も沸いたし、イライラも少なかった。気持ちが少し優しくなれてた。でも今の父はまたうるさくなった。昔のように。口だけ回復して、文句ばっかりまた言うようになった。父は前より幸せに感じているのだろうか。昔のように文句ばかり言って。文句を言って幸せって人いるんだろうか。
母は認知症が進んだとき、神様がそうしてくださった。みたいなことを言ってたことがあった。父は口がひどかった。性格がやばかった。だから認知症と聞いた時こそショックはあったが、進んできて慣れてからは、むしろ今の方がいい。と思ってた。母も多分そう。だからあの父の相手より、介護の方が良かったのだと思う。
しばらくしてあまりにも動きが遅くなっても、認知症が進んだのだと思ってた。それがパーキンソンのせい、とわかったのは今年の頭。ああ…となんか、もう終わりか、みたいに思った。少し寂しさも覚えた。事実だ。でも治療をする。と聞いたときは、…、別にもうせんでも。と正直思った。だって認知症まで治るわけじゃなし。。でも医者は病気を発見したら治療しないといけないんだろうな。なんかめちゃくちゃ詳しい検査をわざわざして、時間とお金をかけて、薬を決定し、飲み出した。そうすると、効くのだ。これが。そしたら、忘れかけていた父の文句がまた始まったわけだ。
私はがっかりしている。
父には悪いが。
死んでほしいとかもう思っていないが。
別に長生きしてくれてもいいが。
もう静かにしてほしい。
せめて文句や機嫌の悪い声は聞きたくない。
勘弁してほしい。
一人暮らし頑張ろう。。
40年前の千葉県千葉市
最近身の回りで面白いことが全然ないから、昔の記憶を書いてみることにする。
千葉県千葉市に2年生の夏までいた。
今は福岡県に住んで長いので、福岡県の良さがわかるので、今千葉県に戻りたいとは思わないが、小学2年生までは、千葉はパラダイスだった。悩みがなかったから、それだけが理由だけど。小学校も高学年、中学高校となると、いろんな嫌なことがあり、博多弁になかなか馴染めなかったこともあって、私には千葉が余計パラダイスのように感じていた時期がけっこう長くあった。
大人になって東京に少し暮らしたこともあり、都会のゴミゴミさや空気の汚さ、そういうものを経験して、今また福岡にいると、千葉がパラダイスだっのは、本当に、悩みがなかったからだ。というのは本当にそうだったと思う。今は九州が好きになってる。
年をとってくると昔の思い出ばかりが鮮明になり、最近のことはわすれる、というのは本当だ。私は最近のことも頑張って覚えているつもりだけど、昔のことって、全然わすれないし、よく、思い出す。ここ2、3年それは顕著だ。
私が通っていた幼稚園の園歌。それは、わたしが在園中に新しく作られた。有名な人が作詞作曲しており、名歌といわれた。作ったのが誰だったか幼稚園児だったから知らない。でも、その歌は本当にいい歌だった。新しく作られた歌ということで嬉しくて誇らしい気持ちだった。今でも全部歌える。
小学校のお昼休みに、しょっちゅう、校内アナウンスがあった。それは、『光化学スモックが発生しました。校舎に入ってください。』というものだった。低学年だったので、怖い~とかは思わず、ふーんそうなんだ。と思って校舎に戻った。そういえば空気の中が光った気がする。とか悠長なことを考えていた。
近所に広い公園があった。ものすごく広いグラウンドと、遊具のある公園的な場所が一体化している公園。そこの遊具のある場所に芝生部分があり、たまに夕方5時頃になると、謎のおじさんが出没した。そのおじさんは、赤いキャップをかぶり、『芝生に入るな~、芝生に入るな~!』と、子供たちに言ってまわる。それは、そのおじさんが委員会の人とかじゃなく、個人で勝手に言っていただけなんではないか、と今は思う。いかにも怪しい、変なおじさんだったから。子供たちはそのおじさんを影でハゲアンドゴリラと呼んでいた。今思い出すと、ハゲではなかった気がする。ゴリラに似ていたかもわからない。けど、イヤなおじさんだから、そう言っていたんだと思う。ハゲアンドゴリラが出るよー、とかみんなで言っていた。
幼稚園の向かいに小学校があった。幼稚園の通りのちょっと先に、スーパーや、いろんな小さい店が寄り集まったアーケードモールのような場所があった。私の一人での行動範囲はそこまでだ。その先は、お姉ちゃんといっしょか、お友達の家に行くとき。それくらい。そのアーケードモールのすぐ横に、川が流れていた。橋が掛かっていたが、その川はちゃんと名前があっただろうが、私たち子供はドブ川と呼んでいた。今でも覚えているが、水ではなく、黒い川だった。そしてすごく臭かった。なんという環境だったのか、と今は思う。でも当時は何も思わず、臭~い!とか言って笑いながら鼻を押さえて橋を渡っていたのだ…。わたしはわりと能天気だったんだろうな、子供のころ。
そういえば、海も死ぬほど汚かった。たぶん徒歩で行ける距離だったと思うが、それは家族や、学校行事でしか行ってないので、私は実際の距離はわからない。とにかく、絶対、泳げたものではなかった。黒かった。足をつけるのが精一杯。潮干狩りのようなものはできた。ということは、貝とかは生息できたのだろう。花火大会のようなものもあった。それは汚さは関係ないからね。
とにかく、あのころの千葉市は環境がひどいものだった。しかし子供は平気だった。
ヘンタイが出るとか、ルンペンがいたとか、そういう話もよく聞いた。ヘンタイは有難いことに遭遇したことはなかったが、ルンペンさんは見た気がする。要するにホームレスの人。当時はそういう風に呼んでいた。
昭和50年代の終わりのころのことだ。今思い出すとひえ~って思うが、その時は幸せだった。ほとんどが。そりゃあたまーには普通にいやなこともあったけど。でも大部分は幸せだったな。