40年前の千葉県千葉市

最近身の回りで面白いことが全然ないから、昔の記憶を書いてみることにする。

千葉県千葉市に2年生の夏までいた。

今は福岡県に住んで長いので、福岡県の良さがわかるので、今千葉県に戻りたいとは思わないが、小学2年生までは、千葉はパラダイスだった。悩みがなかったから、それだけが理由だけど。小学校も高学年、中学高校となると、いろんな嫌なことがあり、博多弁になかなか馴染めなかったこともあって、私には千葉が余計パラダイスのように感じていた時期がけっこう長くあった。

大人になって東京に少し暮らしたこともあり、都会のゴミゴミさや空気の汚さ、そういうものを経験して、今また福岡にいると、千葉がパラダイスだっのは、本当に、悩みがなかったからだ。というのは本当にそうだったと思う。今は九州が好きになってる。

年をとってくると昔の思い出ばかりが鮮明になり、最近のことはわすれる、というのは本当だ。私は最近のことも頑張って覚えているつもりだけど、昔のことって、全然わすれないし、よく、思い出す。ここ2、3年それは顕著だ。

私が通っていた幼稚園の園歌。それは、わたしが在園中に新しく作られた。有名な人が作詞作曲しており、名歌といわれた。作ったのが誰だったか幼稚園児だったから知らない。でも、その歌は本当にいい歌だった。新しく作られた歌ということで嬉しくて誇らしい気持ちだった。今でも全部歌える。

小学校のお昼休みに、しょっちゅう、校内アナウンスがあった。それは、『光化学スモックが発生しました。校舎に入ってください。』というものだった。低学年だったので、怖い~とかは思わず、ふーんそうなんだ。と思って校舎に戻った。そういえば空気の中が光った気がする。とか悠長なことを考えていた。

近所に広い公園があった。ものすごく広いグラウンドと、遊具のある公園的な場所が一体化している公園。そこの遊具のある場所に芝生部分があり、たまに夕方5時頃になると、謎のおじさんが出没した。そのおじさんは、赤いキャップをかぶり、『芝生に入るな~、芝生に入るな~!』と、子供たちに言ってまわる。それは、そのおじさんが委員会の人とかじゃなく、個人で勝手に言っていただけなんではないか、と今は思う。いかにも怪しい、変なおじさんだったから。子供たちはそのおじさんを影でハゲアンドゴリラと呼んでいた。今思い出すと、ハゲではなかった気がする。ゴリラに似ていたかもわからない。けど、イヤなおじさんだから、そう言っていたんだと思う。ハゲアンドゴリラが出るよー、とかみんなで言っていた。

幼稚園の向かいに小学校があった。幼稚園の通りのちょっと先に、スーパーや、いろんな小さい店が寄り集まったアーケードモールのような場所があった。私の一人での行動範囲はそこまでだ。その先は、お姉ちゃんといっしょか、お友達の家に行くとき。それくらい。そのアーケードモールのすぐ横に、川が流れていた。橋が掛かっていたが、その川はちゃんと名前があっただろうが、私たち子供はドブ川と呼んでいた。今でも覚えているが、水ではなく、黒い川だった。そしてすごく臭かった。なんという環境だったのか、と今は思う。でも当時は何も思わず、臭~い!とか言って笑いながら鼻を押さえて橋を渡っていたのだ…。わたしはわりと能天気だったんだろうな、子供のころ。

そういえば、海も死ぬほど汚かった。たぶん徒歩で行ける距離だったと思うが、それは家族や、学校行事でしか行ってないので、私は実際の距離はわからない。とにかく、絶対、泳げたものではなかった。黒かった。足をつけるのが精一杯。潮干狩りのようなものはできた。ということは、貝とかは生息できたのだろう。花火大会のようなものもあった。それは汚さは関係ないからね。

とにかく、あのころの千葉市は環境がひどいものだった。しかし子供は平気だった。

ヘンタイが出るとか、ルンペンがいたとか、そういう話もよく聞いた。ヘンタイは有難いことに遭遇したことはなかったが、ルンペンさんは見た気がする。要するにホームレスの人。当時はそういう風に呼んでいた。

昭和50年代の終わりのころのことだ。今思い出すとひえ~って思うが、その時は幸せだった。ほとんどが。そりゃあたまーには普通にいやなこともあったけど。でも大部分は幸せだったな。