おばあちゃんの家

おばあちゃんの家に来て3日たつ。最初の日は疲れに、環境の変化に、家を出てしまったという少しの罪悪感でいっぱいでハッキリ言って正気じゃいられないほどグロッキーになっていた。だが3日目になり、たいぶん落ち着いてきた。やはり居心地がいい。父、そして兄弟のわさわさした状況から一歩離れることが出来たのはとても精神的にいい!おばあちゃんは96歳だが意外といろんな話が出来るし、全くいまのところ退屈しない。家事を手伝ったり、出きることだけをするのがちょうどい感じだ。

こんなにいい場所がこんなに近くにあったなんて。自分でびっくりだ。病気なのだから、家にいなくては、いてこそ、というわけのわからない思い込みがあったようだ。

夜回覧板を回しに裏に住むいとこの家に行った。いとこは親族のなかで唯一、私に偏見や憐れみという負のオーラに満ちた目をしない人だ。気さくに話しかけてくれる。いい人。その彼が玄関の立ち話で私に精神的のなんやかや、鬱に対して、すごい『効く』らしい啓発本みたいのを貸してくれて、熱く語ってくれた。

いとこの気持ちはすごく嬉しい。弱者に偏見を持たずに接してくれる。それも精神障がい者の私に。他のいとこは、私がいても目に入ってませんよ、という風に装うのだ。それは普通の人の反応なんだろう。それが冷たいというわけでもないんだろう。でも、このいとこは優しい。ついでに奥さんも優しいのだ。

裏にこのいとこが住んでいることが有り難く感じた。しかし、いとこ曰くの、啓発本(洗脳されるかもよと)は、私には合わないだろうな、と読まなくてもわかる。

私はこんな病気でありながらドライな人間なのだ。そんな内部的なことで悩んだりそのため病気になるようなタイプではない。単に外からのストレスに弱いための病気だと思う。だからただタフになりたい。というのが私の切なる願いである。考えを変えたりするだけでは治らないだろう。安静と自分の生活リズムを整え、出来る限り日々の最高パフォーマンスができるようもっていくだけだ。毎日の積み重ね。そうしているうちに少しずつ階段を上がっていくのだ。そして最近、それを感じる。じわじわ良くなってきている。他人からはわからないだろうが、CD二枚連続で聞けた。とか、映画を、休まず最後まで見れた。とか。お出掛けもしたのに、夕飯のしたくもできた、お風呂も洗えた。とか。普通の人なら当たり前にできることだ。でも私には以前は出来なかったことなのだ。それが調子がいいときは出来る。そういうふうに他人にはわからなくとも、わたしは小さな回復を(それも確実な)少しずつ感じている。だから私はこれでいいのだ。