わかりあえないということ

わかりあえないということは悲しいことだけど、確実に存在する。

私が今回実感したことは、実家にいる子どもと別居している子どもの親に対する気持ち。

お父さんが認知症と言われてみんな何も思ってないわけじゃないだろうけど、私がどんな風に親に思っているのか、また行動しているのかあまりに認知度に温度差がありすぎてショックだ。ライン、もうやめようと思っている。思っていたよりうちの兄弟はドライで、当たり前だけど今の家族の方がずっとずっと大事らしい。本当に当たり前の事なんだけど、それをまざまざと思い知った。それから、うちの親のことを本当よりずっとちゃんとしている人だと思っている。ここが私とすごく違うところ。うちの親は表面的にはすごく常識あるように見える。他人から見るとそれはもっと顕著だと思うけど、少なからず外に住む子どもたちにもそれが発効されているように感じる。うちの親、もっともっと頼りなくて実際は出来ていないところが多々あるけど、それは子どもには見えていない。ちゃんとしているところだけが見えている。だから私の影の苦労は皆知る由もないのだ。それを想像できる人はいない。それどころか、そういう部分を私が誰かに愚痴ろうものなら、私こそが冷たくて思いやりのない娘だというふうに捉えられる。それを最近だんだん感じていた。そしてそれが今回の父の認知症発覚でとても明らかになったように思う。どんなに前から私が兆候に気づいていたと言ってもそれを評価してくれる人はいない。私がどんなに悲しんでいるかもたぶんわかっている人はいない。もしわかってくれている人がいたにしても、言葉にして労ってくれる人はいない。悲しすぎる。家出したい。すごく家出したいけど、病気だからできない。今ほど病気であることを辛く思ったことはない。私は辛いんですよということを体現したいのに。どこかに行方を晦ましたいのに。どれだけこの家のために両親のために私が心を砕いてきたのか。家にいる子どもとして当たり前のことではあるけど、誰も、よくやってきたね、と言ってくれないのが本当に辛く寂しい。それこそ消えてなくなってしまいたい気持ち。でもそれができない自分がいるので仕方なくここにいる。だからもうせめてラインはやめる。一人っ子だった、ということにしようと思う。たぶんそういう人、いるはずだから、私も両親と暮らす一人っ子の病気の人になる。それの方がまだましだ。じゃないと悲しすぎる。私と仲良しになれる人ってそういえば少なかった。学生時代を振り返ると。だからそうだ。兄弟だから仲良しで分かり合えるとは限らない。兄弟で仲良しでいられる人は幸いだ。うらやましい。私がミキがすごく好きなのもたぶんうらやましいからだと思う。